第1章 これからの宗教の話をしよう⑤│木村未明の「かしもの・かりもの勉強中」
こんにちは木村未明です
前回は、何事も付き合い方が大切というテーマで、宗教との上手な付き合い方について考えてみました。そして、宗教の信仰は、必ずしも必要とは限らないと考える私が、なぜ信仰を続けているのか。それは、信仰が「とあること」で大いに役立ち、助けられているからであると書き残して終えました。
今回は、私が信仰する理由について書いてみたいと思います。
きむら みめい…勤務地、葛飾区。職業、宗教家。
1991年生まれの宗教6世。宗教の世界に身を置き、日々信仰しながら感じる喜怒哀楽の数々を書き綴る本連載。コンセプトは「しなければならない信仰から、したくなる信仰へ」
@kimura_mimei
私が信仰する理由
私が信仰する理由は、「人のためになることがしたいからです!」と答えたいところですが(もちろん、そういう人も多いと思いますが)、私の場合は自分のために信仰しています。
自分のために信仰すると言っても、私は自分勝手な人間ではありません(たぶん……)。私は、信仰によって安心を得ることができるから、信仰しているのです。
人は時として、予期せぬ出来事や困難に直面したときに弱くなることがあります。私も例外ではありません。予想もできない、まさかの出来事が起こったとき、自分を支えてくれるものが必要です。私にとって、その支えの一つが「天理の教え」なのです。
例えば、高層ビルの屋上の縁ギリギリに立っていると想像してみてください。周りに掴まるものがなければ、足がすくんで立っていられないと思います。でも、手すりでも背もたれでも何でもいいので、何かに身をあずけられるものがあれば、恐怖が減ると思います。私にとって信仰はそんな感覚なのです。
「でも、いくら心の支えになると言われても、〝神様〟って信ぴょう性なくない?」とよく言われます。
「神様が」「魂が」って言われても、たしかに根拠がないと思うのが普通だと思います。でも、私の場合に限ってかもしれませんが、安心を得るのに根拠は必要ないのです。
信仰に根拠はいらない!?
理由を説明するために例を2つ挙げると、1つ目は、家の解体の手伝いをしているときのことです。2階部分の解体がほぼ終わり、細い梁を歩いて移動することになりました。ですが、2階というのと、梁が細いのとで、足がすくんで、歩けなくなりました。(私は高いところが苦手なのです。)たまたま近くに大きめのバールがあったので、それを杖かわりにしようと思った途端に安心して、結果、杖代わりにせずとも、持っているだけで歩くことができました。持っているだけで安心できるのです。でも、バールがあれば落ちないという根拠はありません。
2つ目は、皆さんは松下幸之助をご存知でしょうか。松下幸之助は、パナソニックを創業し世界的企業へと成長させた経営者であり、異名は「経営の神様」です。経営者やビジネスをしている人なら、経営や会社の行く先が気になると思います。言い換えれば、上手くいかなくなったらどうしようと「不安」を抱えている状態です。不安がある人は、少しでも安心したいから、成功者の教えを請うわけです。松下幸之助は、毎朝トイレの掃除をしていたり、出発前に必ず靴を磨いていたりと、日々の生活にも気を配っていました。そんな松下幸之助の教えを聞けば、同じように真似をするのです。そうすることで、成功に近づけるのではないかと安心するのです。でもそれをしたからといって、成功できる根拠はありません。この場合の唯一の根拠は「松下幸之助」が言ったからです。少しへりくつっぽくも思えますが、私にとって安心を裏付ける根拠はその程度のものなのです。それが、「天の神様」か「経営の神様」の違いでしかないのです。
大きな災難が小さな災難に、小さな災難が無難になる方法があれば、どんなに安心できるでしょう。明日目が覚める保証も、大切な人の健康も、未来も、すべて不確実です。神のみぞ知る世界で、お金で安心を買えるわけではありません。運に頼るしかないのでしょうか?
様々な悩みが起こるのには理由があって、それを好転させる方法があるとすれば興味はありますか?それが天理の教えにはあって、それを掴んでいるだけで安心ができている。それが私の信仰している理由の一つです。 皆さんが信仰する理由はなんですか?
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(つづく)
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