はじめに ~Z世代、信仰やめるってよ~│木村未明の「かしもの・かりもの勉強中」

「信仰をやめようと思っています。」

つい最近、後輩からそのような相談を受けました

「どうして?」と尋ねると、「信仰をしてもしなくても、僕の人生には変わりないですもん」と返ってきたんです。

「じゃあ、君にとっての信仰は何なの?」と聞くと、「行事に参加することと、お供え(お布施)をすること」と答えました。

どうやら、学生の頃は教会の行事が楽しくて信仰を続けていたそうな。しかし、仕事が忙しくなり、信仰を続ける理由が薄れたというのです。

学生の頃は、「楽しい」が信仰のメリットでしたが、社会に出てからは楽しいだけでは、信仰を続ける理由にならないんです。

そりゃメリットがなければ信仰を続ける理由がないですよね

現代ではSNSなどを通じて、自分の居場所を見つけることが容易になりました。また、かつて宗教の専売特許だった道徳観や心の使い方も、本や動画を通じて学べるようになりました。

彼によれば、天理教である必要がないというのです

「なんで信仰するの?」「宗教って必要なの?」という問いが、今まで以上に浮かび上がってきています。

そして、この問いは私が長い間抱えてきた課題でもあります。

この記事を書いた人
木村 未明
天理教深川大教会

きむら みめい…勤務地、葛飾区。職業、宗教家。
1991年生まれの宗教6世。宗教の世界に身を置き、日々信仰しながら感じる喜怒哀楽の数々を書き綴る本連載。コンセプトは「しなければならない信仰から、したくなる信仰へ」
@kimura_mimei

目次

あれ、なんで信仰しているんだっけ?

少し前の出来事です。夜行バスに乗るために東京の上野に向かいました。電車を降り、駅から出ると、周囲はすでに真っ暗。人々が行き交う道を歩いていると、何かの団体が新聞のようなものを配っていました。

私:「なんだろう?」

おもむろに近づいて新聞をちらっと見ると、何かしらの宗教団体であることが分かりました。そして、ほぼ同時に声をかけられました。

若い女性:「〇〇(宗教名)って知っていますか?」

その宗教団体の教えや教祖の功績を聞き続け、終わる頃には30分以上が経過。

  • 「やっぱり宗教って不気味だなー。」
  • 「そもそも今の時代にさっきの話を聞いて信仰する人がいるのかな。」
  • 「せっかくラーメンでも食べようと思っていたのにもう時間がないじゃないか。」

そんなことを思いながらバス停に向かっていると、ふと自分に戻りました。

私:「あ、自分も信仰しているあちら側の人間だった(団体は違うけれど)。」

あれ、そういえば、自分はなんで信仰しているんだっけ……?

あれ、信仰するメリットってなんだっけ?

大学生のときの出来事です。大学の研究室に勤務していた方(10歳年上の方)と仲良くなりました。

ある晩、私は彼とお酒を飲みながら話していると、突然彼から「そういえば、君は天理教を信仰しているんだよね?」と尋ねられました。私はあまりにも唐突だったので、「はい」とだけ答えました。

:「なんで信仰しようと思ったの?

私:なんでって、家が教会だったからですかね。

それが、当時の私の本心でした。

彼:そっか。じゃあ、僕が信仰する理由はないね……。

その後の会話でわかったことですが、彼は、天理の教えが自分の人生に良い影響を与える可能性があるなら、活かしてみたいと考えていたのです。ですが、私自身が積極的に信仰を探求しておらず、教えを深く理解していなかったため、「天理の教えってどんなの?」と聞かれても、説明することができませんでした。

そして、この経験からひとつ気づいたことがあります。それは、

「自分の人生から〝信仰〟を取り除いても、何も変わらないのではないか?」

という問いです。

あれ、信仰のメリットって何だっけ。

はじめまして

はじめまして、木村未明といいます。天理教の信仰を代々重ねる家庭で生まれ育った、いわゆる宗教2世です。

「なぜ、信仰しているのだろう?」

ある時から、この問いが私の頭から離れなくなりました。

オウム真理教の地下鉄サリン事件や、最近ではカルト宗教に苦しむ宗教二世問題が報道されるたびに、「あなたも苦しんだのでしょうね」とか「まだ宗教を信じているの?(もう気づいた方がいいよ)」といった言葉を聞くことがあります。

しかし、私の場合、特に苦しい経験はないのです。(それが洗脳と呼ばれるものなのか笑)

あるとすれば、お祈り(天理教ではおつとめと呼びます)の時間に見たい番組が被って見られないことくらいです。(まあ、録画すればいいだけの話ですが)

そんなこんなで、私は子供の頃から「信仰」が日常の一部であることを受け入れて生きてきました。

当時の私にとって信仰は、使い方もわからない〝道具〟を、とりあえず持っておきなさいと言われて、ただ持っているだけのような感覚でした。

もちろん、先述のような宗教問題が度々報道されるたびに、その道具が持つ危険性や社会的な不利益も理解していました。なので、なるべくその道具を隠して生きてきたんです。

大人になり、私の友人の中にはその道具を手放す人もいました。

彼らはこう言います。

「この道具を持っていても、持っていなくても、自分の人生には何も変わらない。」

確かに……。

持つことをやめるのは簡単です。今この瞬間にも、「やめる!」と決めればいいのです。

確かに、その「道具」を持つことによるデメリットや社会的な印象を考えると、持たない方が生活しやすくなることもあるでしょう。

でも、私はふと考えました。

  • 「この道具を持つメリットって、一体何だろう?」
  • 「そして、この道具は、どのように使うべきなのだろう?」

日常生活に信仰は活きるの?

当たり前のことかもしれませんが、物事には良い面もあれば悪い面もあります。

例えば、車。車を使えば、徒歩や自転車に比べ移動時間を短縮でき、複数人乗れて荷物も運べます。生活を便利にしてくれる、現代人にとっては欠かせません。

一方で、正しい使い方やルールを守らなければ事故に繋がり、自分や他人に危害を及ぼす可能性があります。車を使うことの大きなデメリットです。

これらを理解した上で、デメリットよりもメリットが上回ると考える人は車を使い、デメリットを懸念する人は使いません。

なにが言いたいかというと、宗教にもメリットやデメリットがあるはず。そして、それを理解したうえで、上手に付き合うことが大切だということ。

私はそう考え、信仰と向き合ってみることにしました。

デメリットは、盲信により人間関係や家族関係を壊し、コミュニティから離れられなくなること、いわゆる「洗脳」や「マインドコントロール」、不安を煽って高額な商品を買わせる「霊感商法」といった詐欺行為など、カルト宗教に関連する問題点が存在します。

もちろん、全ての宗教がこれらのデメリットに該当するわけではありません。ですが、宗教に対する一般的なイメージとして、日本ではそういった懸念を持つ人もいると思います。

では、宗教にはどのようなメリットがあるのでしょうか?

自ら信仰を始める人は、病気の治癒、悩みの解決など、何かしらの理由からでしょう。

本来的には、宗教は人生を豊かにするべきなんです。信仰は、病気や悩み、人間関係の問題といった、生活の〝生きにくさ〟を和らげてくれるはず。つまり、「信仰」は〝目的〟ではなく、人生を生きやすくしてくれる〝手段〟なんです。

ですが、宗教は基本的には〝目に見えない世界〟に関するものなので、怪しげに思われ、信じるのが難しいこともあります。

でも、目に見えない世界を信じることで得られる「安心」があり、その「安心」が人生をより良くするための武器となることから、宗教という価値観が何千年も続いているのかもしれません。

以上のような価値観は、私が信仰を通じて感じることであり、信じるかどうかは個人の自由です。

はたして、社会では、「安心」を宗教のメリットだと感じてもらえるのか、それとも、宗教という狭いコミュニティの中だけの価値観に過ぎないのか。それを確かめたくて、連載を始めました。ぜひ、色んな感想やご意見をお待ちしております。

次回→「これからの宗教の話をしよう」

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